定年後は一人社長で1,000万円稼ぐ⑦人の心を動かすのはこの2つ

「38歳時点での私」

私が人生上もっとも苦しかった時期。

まさに「痛み」の頂点にあった時期。

「快楽」がほぼない、

「痛み」だけの毎日。

38歳の私の毎日。

私の「痛み」と「快楽」を掘り下げます。

この行為は、ターゲットの「痛み」と「快楽」を

確実に掴むために、非常に重要です。

コンサルタントがクライアントがどのような「痛み」

から、「快楽」を得るために、どこに向かいたいのか

を掴むためにどうしても必要な作業になります。

私の「痛み」と「快楽」を掘り下げた内容をお見せします。

「痛み」だけの毎日とは?

圧倒的に金がない。

圧倒的に時間がない。

圧倒的に自信がない。

圧倒的に妻と話してない。

圧倒的に子供と遊んでない。

圧倒的に仕事しかしてない。

圧倒的に仕事がうまくいってない

圧倒的に希望がない。

圧倒的にどうしていいかわからない。

この頃の偽らざる気持ちです。

この頃の私は、2社のオーナー企業の経営者でした。

結局は、若輩の私は、経営者として経験不足、力不足で

権力闘争に負けていくことになります。

そして、経営者であることを断念して、サラリーマンになることを

決意して、サラリーマンに転職することになります。

中堅企業のサラリーマンとなり、そして、その先に、

サラリーマンとして経営に携わることになります。

サラリーマンの経営者として、この時の経験が大いに役に立ちました。

そして、このとき、サラリーマンに転職していなかったら、

どん底の人生を送っていたか、この世からいなくなっていたかだと

思っています。

この頃の私の詳細は、経営者としてのバージョンで報告しますが、

この頃は、「快楽」はまったくなく、「痛み」だけの暗黒な日々でした。

ターゲットである38歳の私の「痛み」と「快楽」を言語化する

今回の目的は、ターゲットの「痛み」と「快楽」を明確にし、

ターゲットが、どこに向かいたいかを言語化することを目的にしています。

「38歳時点での私」

私が人生上もっとも苦しかった時期。

まさに「痛み」の頂点にあった時期。

今まで、この頃を具体的に振り返りたくもなく、もちろん振り返ることもして

いませんでしたが、今回は、否応がなく振り返ることになりました。

当時を思い出すと、あの苦しい、厳しい、先が見えない、暗黒の日々がリアルに

思い出されて、本当に嫌な気持ちが蘇りました。

この内容を講師に見せると、「胸が締め付けられますね」と言われました。

だけど、コンサルタントになるためには、深く切り込む必要がありますので、

苦しくとも、本当に詳しく洗い出す必要があります。

こんなことまで?と思いましたが、この苦行を行うことにしました。

具体的に行うことは、「痛み」と「快楽」を掘り下げます。

「38歳時点での私」の「痛み」と「快楽」を掘り下げた内容を

紹介します。

私の具体的な「痛み」

どのような痛みがあったのか。

情けない、悲痛な、状況を報告します。

「38歳時点での私」の「痛み」です。

倒産後の受け皿とした会社は、自分が立ち上げた自負がありました。

この倒産後の受け皿とした会社は、私が社長になると、

計画倒産とみなされる恐れがあり、私が社長となり、

表舞台に立つことはできませんでした。

そこで、暫定で仮に親族で社長を立てて、外から私が外部支援を

行うことによって、遠隔操作を行い、もっとも苦しく厳しい時期を

乗り切ることが出来ました。

しかし、経営が安定した後に、仮に暫定で立てた社長が経営権を譲らずに、

決裂することになりました。

仕方なく、もう1社経営している会社に全面的に変わることになりました。

この会社も設立から数年で、経営状況も安定せず、

経営者といえども、多額の年収をえることは出来ませんでした。

年収は、840万円⇒430万円と急遽半減するとなり、

急遽生活費に困ることになりました。

まだ若輩で、経営者としての経験も乏しく、2社目の共同経営者に依存せざるを

得ませんでした。

経営者としての自分の判断が浅かったことも痛みとして感じていました。

経営者になると自分で決めたことであり、責任があると信じていました。

そして、この経営から逃げられないと思っていたので、会社から逃げることもできずに、

目の前のことをこなしていました。

夜は11時頃帰宅、徹夜作業につきあうこともしばしばでした。

弱小零細企業であるから仕方ないと思っていました。

若い時であるから体がもったが、妻からは「このままでは死ぬよ」と

いわれましたが、やめられませんでした。

妻は、言っても聞かないと思っていたそうです。

私も、この状況をやめてと言われても聞かなかったと思います。

この時の私は、ほかの人のアドバイスが全く耳に入らなくなっていました。

これが、後から考えると経営者が孤独になり突っ走る原因になると実感しました。

本当にやばい状況まで来ていました。

もちろん、気が付いていませんでしたが・・・。

共同経営者に依存した関係性

共同経営者とは、以前は相談しながら、信頼を置いて経営を行って

いましたが、関係性が悪化し、経営についてはまったくイニシアティブは

取れなくなり、経営については、共同経営者主導になっていきました。

ただ、私にも経営者としての責任はあり、特に資金繰りの厳しさから、

経営者として、親や親戚から多額の借金をして資金を投入して、存続させる

状況にありました。

共同経営者の私の存在価値は、まさにここにあったと思います。

そして、会社や仕事において、先々の展望は全く見えていませんでした。

自分の気持ち

このころは、自分に自信がなくなっており、

どうしてよいかわからなくなっていました。

毎日がとてもつらかったのですが、現状を変えられませんでした。

というよりも、この環境を変えることは出来ないと思いこんでいました。

車を運転していて、このまま突っ込めば楽になると何度も思いました。

家族のことを考えると踏みとどまりました。

自分の気持ち

・妻に小学校に入学した子供のお道具箱を買うお金がないといわれ、

貯金もない中でどうしようもなく、非常に情けない思いでした。

・妻は、専業主婦として小学生と2歳の幼児をワンオペで育てている中、

生活費を稼ぐために、早朝の牛乳配達と下の子供を預けて

昼間の仕事を行ってくれました。申し訳なく、情けない気持ちでした。

・妻が専業主婦の時は、妻が弁当を作ってくれて、妻の弁当を昼間食べていました。

妻が働きに出ることにより、弁当がなくなったので、

少しでもお金を節約するために、毎日の昼食は、安いほかほか弁当を買ったり、

マックの一番安いハンバーガーを選んで食べていました。

・自分のお金はまったくなく、どうしても必要なお金は妻からもらうように

していましたが、極力お金を使わないようにしていました。

お金がないことのみじめさを身に染みて味わうこととなりました。

・妻:私の仕事の変化が大きく、収入も激減して、不満が大きくなっていたと思います。

しかし、私は妻と向き合う余裕もなく、向き合うこともできずにいました。

妻は、私に不満をぶつけたいと思っていたと思いますが、私に言っても

聞かないと思っていたそうです。

私が家にいる時間もほとんどなく、コミュニケーションをなかなかとれません

でした。家のことは、すべて妻がやっていて、私は、まったく家のことに関われ

ていませんでした。

・子供:休日に家族で遊びに行くことも少なくなり、なかなか子供たちと

遊ぶことができずに、可哀そうに思うとともに、子供と遊べない寂しさを

強く感じていました。

・親:大変な心配をかけていました。

1,000万円の借金を親からして、会社に投入しました。

叔父からも500万円の借金をして、会社に投入しました。

返済の目途はまったくないが、返済しますと言っていました。

余暇

自分で仕事量をコントロールできる状況になく、今ではありえない

ブラックな働き方を従業員にも求める会社であったため、

土曜日はほとんど出勤か、接待ゴルフで、日曜日も何かしら出勤しており、

余暇と言う時間はほとんどありませんでした。

自分の楽しみで余暇を過ごす余裕はまったくなく、

時間があるならば、眠りたかった。とにかく嗣明も圧倒的に足りていませんでした。

たまに、子供を連れて公園に行けば、子供が遊んでいる間、芝生で寝ていました。

私の具体的「快楽」

「38歳時点での私」の「快楽」を思い出しました。

自分の快楽はなく、少しでも妻や子供が喜んでくれれば、

それでいいと思っていました。

家族の団らんもほぼなく、家族として当たり前のことをすることが

出来ませんでした。

最低限の家族の時間とお金だけでも欲しかったんです。

ただそれだけでした。

仕事の状況

会社を経営者は、やめて転職することは出来ないと思っていたため、

会社をやめることができないと思っていました。

さらに、38歳では、転職は難しいと思っていたため、

転職と言う選択肢を持っていませんでした。

共同経営者からは、親からのお金を入れる私が必要な資金源でしたので、

やめさせないように、マインドコントロールをしていたんだということに

後から気が付きました。

ある日、親が心配して、別の道があるのではと言われましたが、

当時は、マインドコントロールの中で、転職はまったく無理な話と思っていて、

まったく聞く耳を持てませんでした。

ある時、もしできるなら現状から逃げたいと思いになりました。

もうこの「痛み」に耐えられなくなっていました。

ただ、経営者が会社を放り出すことができないと思っていたので、

誰にも相談できませんでした。

(※この時に、相談できる人がいればどれだけ救われただろう・・・

と思います。この経験が、中小同族企業経営者向けの

コンサルタント及びカウンセラーの活動につながっています。)

この時に相談できたのは、倒産の際に担当してくれた当時の顧問弁護士でした。

たまたま、久しぶりに会うことがあったので、

経営者は、会社をやめることができますか?っと相談しました。

弁護士からは、「はっ?」という顔をされました。

私のただならぬ様子を見かねて、もちろんできると丁寧に説明してくれました。

もちろんできる(あたりまえですが)と言われて、目からうろこが落ちる

気持ちでした。やめれるんだ!!と気持ちの扉が開く思いでした。

そして、早く相談できればよかったのにと、強く思いました。

転職活動

転職するのに、ネットにリクナビ等の転職サイトがこの頃から始まって

いました。ネットの求人情報がなかったら、全国での転職活動は出来ずに、

いたと思います。

ネットの時代が始まっていたからこそ、助けられました。

職安に行かずとも転職活動ができることを知り、

もしかしたら、転職できるかもと思い始めました。

当時の私は、もちろん自分でパソコンを持っているはずもなく

会社のパソコンで求人情報を見るわけにもいかず、困っていました。

その時会社に取引があったパソコンを扱う会社の営業マンに、

使わないパソコンをただで、譲ってもらいました。

メールも当時無料で使えるメールがあり、それを紹介してもらい、

なんとか、ネットで転職活動をする環境を整えました。

はじめは、自分の売りがよくわからず、面接までなかなか進めません

でしたが、状況がわかるようになると、

自分のキャリアが「経営者」「営業」「総務、経理、人事」の転職市場で

結構引き合いがあることがわかってきました。

自分の強みを理解したことにより、履歴書で落とされていたことが、

そのうちに面接を多く受けられるようになり、

最終的には、内定を数社勝ち取ることが出来ました。

家族と収入の状況

どうしても、お金が欲しかったので、妻に転職の相談をしました。

強く賛成もしませんでしたが、反対もしませんでした。

転職できれば現在の収入より高い条件で採用されて、

妻にお金の心配をかける度合いを減らしたいと思っていました。

引っ越して、全国どこでもいいから、新しい環境にて再出発したいと

思っていました。

持ち家はまったく考えられないが、賃貸でも無理なく支払いができる

収入を得たいと思っていました。

休みの日に子供と接する時間を持てるようになりたいと思っていました。。

毎日夜家族で食事をしたいと思っていました。

転職活動している中で、600万円以上の年収は確保したいと思っていました。

貯金ができるかわからないが、妻がお金が足らないという回数を減らしたいと

思っていました。

小遣いは多くないが少しだけでいいから、使えるお金が欲しいと思っていました。

余暇

妻と子供と旅行に行きたいと思っていました。

妻と子供と高くなくてもいいから、おいしいものを食べに行きたいと思っていました。

本当にささやかな「快楽」が欲しかったのです。

ただそれだけでした。

それほど「痛み」が強い状況で、「快楽」を強く思える状況にありませんでした。

この時の心理状況

自分に自信がなくなっており、収入も減って妻や子供や親・親戚に迷惑をかけ、

かなりの時間を会社に拘束されて、睡眠がまったく足りておらず、

精神的に追い込まれていました。

将来に希望がまったく見えない状況にありました。

転職活動を行い、少しづつ転職ができる可能性があることがわかり、

地獄のような状況から、逃げられるかもしれないと思い、

地獄に光明が見えてきました。

毎日の仕事をしながら、転職活動を行うことが大変でしたが、

前向きな思考に変わってきました。

この「痛み」と「快楽」の深堀を行うことによって、

コンサルタントになるということには、何か理論があるのではないかと

思い始めました。

私のマインドは変わってきました。

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